「トンチンカンな善意より冷ややかな悪意の方が善に近い」
『機会あるごとに自我ギャップを叩いて矯正する』ですってよ。目を皿のようにして周囲の人間を観察して、相手の自意識と観察者自身の格付けとのギャップを探し回ったりするのでしょうか。息苦しいお節介社会ですね?
秋葉原事件の加藤智大>肥大した自我を維持するために現実認識を歪めるパターン。社会からの疎外が原因には違いないが、共同体が抱え込めるかというと無理。職があれば事件起こさなかったかも。とは言えるかもしれん
"だから秋葉原の犯人みたいなのは指さして全力で嗤うのが正しいと、そう思うわけである。"それよりいい対策は思いつかんなあ、やっぱり。
何か、久々に賛同できる意見だな。落としどころは難しいんだけど。
>自我ギャップを叩いて矯正するしかないのかな//ギャップを埋めるために叩くことが効果的とは、どうも思えない。傷つけられた憎しみしか残らないリスクが高そう。
自分だけは違う(生き延びられるという全能感)があるから笑えるような気もするんですが…
経済はデフレ・自意識はインフレ
うーん。件の犯人に関してはこれに限らず私的な印象とのギャップが大きい。/奴にこそ「自由であれ」と云うべきだったかと。←タイムリーにも類型を見てしまったのだが「自由であれ」とは云わないなぁ。俺。
ある種の正論ではあるが、それを言うと角が立つ。まぁたしかに、この世の大半の人はどうあれ日常と何とか折り合いをつけて生きているわけで。
「「すごくヘン」な人も笑顔で受け入れろという逆方向の圧力を普通の人に強制する社会」大変人として、真剣にそれ希望。orz
"なんか進学校で挫折して云々という話も聞くがあのね進学校ってそういうところだから。"
『敗北を受け入れて自意識を再構成していくのではなく、肥大した自意識を維持するために現実認識を歪めるという安易な道を選ぶ人間が一定程度はいる』『「自信満々度」では本当に勝ち残った人と区別が付かな』い
↓「落し込」んですらいない。仮に全力で笑ったとしても全体を笑える訳ではない。「ちょっと洒落んなんないんじや…」てとこが必ず残る。笑いは言ってみれば「ジョーカー」だ。切り札を解決策と勘違いしてはならない
言われてみれば三十人殺しの集落は「セックスにだけは少なくとも不自由しないコミュニティ」だった訳だが、加藤のような人物にそれはアルカディアであったのか(笑)。
人生における撤退戦の重要性はこの人がつとに指摘するところだったね。
加藤のような人間はいなくならないだろう。ただ、嗤うことは昔から連綿と行われ続けたことでありそれで結局いなくなっていないのだから新しい方策を考えるのは無駄ではないだろう。悪化する可能性もあるが
社会の中でギャップを修正できないのは、親との関係の中でギャップが修正できなかったからって思っています。最近の凶行に共通する母親の過干渉や父親との不仲とか。
全能感の切除ができていない人が多くなってきてるのかな。
全力で嗤う<よくわからないけど、その落とし込みはなんか違う気がする。
『他人を傷つけることで自己の肥大した自我を正当化することなどできないと思い知らせることが、そのような自我の持ち主が他人を巻き添えにしながら崩壊していくことを防ぐ方法』その責任を社会全体で負う覚悟がいる
進学校における自意識のゲシュタルト崩壊。
「他人を傷つけることで自己の肥大した自我を正当化することなどできないと思い知らせることが、そのような自我の持ち主が他人を巻き添えにしながら崩壊していくことを防ぐ方法なのだと。」
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コメント
「トンチンカンな善意より冷ややかな悪意の方が善に近い」
『機会あるごとに自我ギャップを叩いて矯正する』ですってよ。目を皿のようにして周囲の人間を観察して、相手の自意識と観察者自身の格付けとのギャップを探し回ったりするのでしょうか。息苦しいお節介社会ですね?
秋葉原事件の加藤智大>肥大した自我を維持するために現実認識を歪めるパターン。社会からの疎外が原因には違いないが、共同体が抱え込めるかというと無理。職があれば事件起こさなかったかも。とは言えるかもしれん
"だから秋葉原の犯人みたいなのは指さして全力で嗤うのが正しいと、そう思うわけである。"それよりいい対策は思いつかんなあ、やっぱり。
何か、久々に賛同できる意見だな。落としどころは難しいんだけど。
>自我ギャップを叩いて矯正するしかないのかな//ギャップを埋めるために叩くことが効果的とは、どうも思えない。傷つけられた憎しみしか残らないリスクが高そう。
自分だけは違う(生き延びられるという全能感)があるから笑えるような気もするんですが…
経済はデフレ・自意識はインフレ
うーん。件の犯人に関してはこれに限らず私的な印象とのギャップが大きい。/奴にこそ「自由であれ」と云うべきだったかと。←タイムリーにも類型を見てしまったのだが「自由であれ」とは云わないなぁ。俺。
ある種の正論ではあるが、それを言うと角が立つ。まぁたしかに、この世の大半の人はどうあれ日常と何とか折り合いをつけて生きているわけで。
「「すごくヘン」な人も笑顔で受け入れろという逆方向の圧力を普通の人に強制する社会」大変人として、真剣にそれ希望。orz
"なんか進学校で挫折して云々という話も聞くがあのね進学校ってそういうところだから。"
『敗北を受け入れて自意識を再構成していくのではなく、肥大した自意識を維持するために現実認識を歪めるという安易な道を選ぶ人間が一定程度はいる』『「自信満々度」では本当に勝ち残った人と区別が付かな』い
↓「落し込」んですらいない。仮に全力で笑ったとしても全体を笑える訳ではない。「ちょっと洒落んなんないんじや…」てとこが必ず残る。笑いは言ってみれば「ジョーカー」だ。切り札を解決策と勘違いしてはならない
言われてみれば三十人殺しの集落は「セックスにだけは少なくとも不自由しないコミュニティ」だった訳だが、加藤のような人物にそれはアルカディアであったのか(笑)。
人生における撤退戦の重要性はこの人がつとに指摘するところだったね。
加藤のような人間はいなくならないだろう。ただ、嗤うことは昔から連綿と行われ続けたことでありそれで結局いなくなっていないのだから新しい方策を考えるのは無駄ではないだろう。悪化する可能性もあるが
社会の中でギャップを修正できないのは、親との関係の中でギャップが修正できなかったからって思っています。最近の凶行に共通する母親の過干渉や父親との不仲とか。
全能感の切除ができていない人が多くなってきてるのかな。
全力で嗤う<よくわからないけど、その落とし込みはなんか違う気がする。
『他人を傷つけることで自己の肥大した自我を正当化することなどできないと思い知らせることが、そのような自我の持ち主が他人を巻き添えにしながら崩壊していくことを防ぐ方法』その責任を社会全体で負う覚悟がいる
進学校における自意識のゲシュタルト崩壊。
「他人を傷つけることで自己の肥大した自我を正当化することなどできないと思い知らせることが、そのような自我の持ち主が他人を巻き添えにしながら崩壊していくことを防ぐ方法なのだと。」